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2017. 08. 26  
我が家では主力の果樹(桃とプラム)がすっかり収穫を終えて、今は梨、プルーンの収穫時期・・・僅か一二本の木なので友人に少し送って残りは自宅用。
あとは柿や🍎林檎が樹に残るだけで~ただひたすらに雑草が生い茂っている。その伸び具合は凄く、だいぶ歩行困難な草原に変貌していて。。。夕方は蚊が多く草刈りもままならぬ、昼は暑い!些か困っている。
・・・ムスタン程の高地ならば、草はほとんど伸びないのだろうと~申し訳ない羨ましさを感じてしまうが、それは甘い考えです。

【第6章】果物づくりの本領(魔術師のくだものづくり)
ドンバ村という小さな集落に。国の払い下げの土地を地元の青年たちは夢を託し、ネパール国最大のリンゴ園を始めたのです。開園時は国王が農業大臣を伴い視察に訪れるほどの期待と、彼らの全財産と両翼を注ぎ込んで・・・しかし5年たっても成果は上がらず苦境にあえいでいる時に、近藤亨氏の存在を知り助けを求めて来た。

近藤氏はリンゴ園を観て、成木の本数の多さや施設の規模に・・・これは遣り甲斐がある、自分の技術があればネパール一番のリンゴ園に出来る!・・・そう思い、地元の青年を数名雇い、先ずは摘果から始めたと。
現地の方々は、たわわに実が着いている枝から、リンゴの実をドサドサ地面に落としていく近藤氏の作業を観て仰天したと。

・・・果樹栽培ではほとんどが、相当数を摘果(良い実だけ残し、ほとんどの実を枝から取り除く)は必要なのです、桃に至っては20分の一程度しか枝に残しません・・・そうしないと大きく美味しい実になりません。

そして初めて収穫できた林檎は〰カトマンズ空港で人気となり、ゴールデンデリシャスはその香りと美味しさに忽ちに有名になったようです。裕福な家庭では厳寒の冬の間、親戚縁者を頼って温かい都市へ移る為、土産のリンゴとして空港でよく売れるのだそうです=貧しい人は玄関に耐えムスタンで過ごします。
そして冬は、どの果実も剪定作業の季節です。
私も冬の剪定は北風に手先が冷たくなりながら、高い脚立の上で枝を切り落とす作業をしています。。。がチベットの、高地のこと、その作業の厳しさ辛さがどれ程のものか…私には判りません。

しかし現地の青年は純情で~近藤氏の指導の元、熱き思いで厳寒の農地での剪定作業を成し遂げたばかりか、一か月も経たぬ間に近藤氏の技術を習得してしまったのです。(私は桃の剪定技術習得に2年=冬2回を費やしました)
それまでのリンゴの木は枝が伸び放題で剪定という作業はしていなかった・・・大きな🍎美味しい🍏に成らない筈です。果樹全てに剪定作業(込み合った枝を切り、どの枝度の実にも太陽光が行き渡るようにする)はとても重要なのです。

そして、この現地の青年の熱い思いと老人・近藤氏の息の合った働きは、遠くマルファの国立園芸試験場のスタッフをも刺激し、剪定を教えてほしいという人達が集まり〰予定以上の速さで厳寒の地の剪定作業が終えることができた…このことは近藤氏ご自身『至誠天に通ず』と感銘を受けたと記されています。

天は自ら助けるものを助ける・・・この格言が亨氏も、それ以上に現地の青年たちにも、何事にも代えがたい尊い財産となった。とこの章は結ばれています。

寒さの中、北風に晒されての農作業の辛さは~経験した者でなければ判らぬが、日本(私)では想像もできないチベットの高地、話だけで目が眩む想いです。

リンゴ栽培
🍏はアブラムシ・カイガラムシに気を付けると比較的栽培しやすい果物です。庭木としてお花も可憐で楽しめます🍎我が家にも3本あり、うち一本は料理用(アップルパイやジュース・ジャム)の甘酸っぱい林檎です。
2017. 08. 16  
第3章のエベレストの裾(富士山と同じ高度)の異国の地に見事に咲いたチューリップに想いを馳せ、新潟県のチューリップ観光案内を観た。新潟県のチューリップ情報
新潟のチューリップを是非一度観ておきたくなった(ムスタンは無理ですから)。

【第4章】ジャパニーサブが死んだぞ!
平成3年11月の事、近藤亨氏は10年以上ヒマラヤ山麓を馬に乗って移動していた~熟練していたはずの彼が落馬をした。
子供のほんのチョットした悪戯に馬が驚いた結果の落馬事故。
彼が目を覚ました時は自宅のベットの中、心配する人々の声が周囲を包んでいた。医者はいない~遠くまで迎えに行く者もいたが、彼の治療に当たったのは、日頃リンゴ園の鶏・豚・牛の診察や治療をしている畜産普及員であった。

寒村の者は医者にはなかなか診てもらえぬ環境、彼は急病人や怪我人をたびたび治療している経験者で、町の医者より信頼ができるとも亨氏は記している(゚ω゚)・・・日本の病院の待合の光景とは、医療事情が大きく違います。

すっかり亨氏を信頼し尊敬しているムスタンの人々は亨氏の事を「ジャパニーサブ」と呼ぶようになっていて、そのジャパニーサブが死んでしまうと嘆き悲しむほどの重傷を負った・・・しかも、遠く厳しい、医療は最悪な環境の異国の地で
どれほど故郷の風景が亨氏の脳裏に浮かんだことか・・・本には書かれていないが、、、それを思うと私は一度必ず新潟の自然に触れたいと思うのです。

★僻地でのボランティア活動がいかに危ない綱渡りの日々か、思い知らされたと・・・見かけ豊かで平和に暮らす私達にはわからない世界です。

【第4章】天祐!本間氏夫妻との出会い
生きて貧に喘ぐムスタンの人々に命を捧げよと~神の意志は、彼の肉体の復活だけに留まらず~大きな支えを贈られている。

亨氏は日本・ネパール協会の依頼で、東京で講演会を行った。(平成3年)
その講演の最後のあいさつで、
「皆さんがこうして経済大国日本で、豊かな文化生活を愉しんでおられる時、私の今いる最貧国ネパールの中でも、最も開発から取り残された秘境ムスタンでは、食料も乏しく、厳寒に暖を取る薪にも事欠き寒さに震えながら必死に暮らしているのです。
そうして子供たちは学校に行きたくとも学校はなく、家が貧乏なために一日中野良仕事を手伝い、水を汲んで谷から運び上げ、家中の食事に必要な粉を石臼で挽き、一生懸命働いているのです。
私はその憐れさを見るに見かねて私財を投げ出し命がけでボランティア活動を始めました。」

そして、戦後の日本の衣・食・住に事欠く決して忘れられない記憶、・・・と挨拶がつづいたのです。
その時初めて亨氏の講演を聞かれた、本間ご夫妻が感銘を受けて、協力を申し出てくださったのです~「ムスタン地域開発協力会」の事務方をすっかり引き受けてくださったご夫妻のお陰で、亨氏が現地ムスタンで本領発揮の活躍を展開できる背景が整ったのでした。

 私は一人農業(労働も事務処理も、暮らしの雑事も何もかも)
 協力者なくして農業は出来るものではないですから~亨氏の安どの様子は良く判ります。

 それから、石臼を挽く子供たちの事・・・遊び半分で石臼を購入しソバを挽いたのですが、匙一杯の粉も引くのが大変でギブアップしました~ムスタンの子らは!!!
そのような地で献身的活動をされるのならば、独り身でなくては叶わぬこと、禅僧の妻帯が許されない訳も分かる気がします。家族が同じ献身の強い志が無ければ家族の存在は不可の環境ですし、自分の家族に憂いがあっては到底出来る所業でもありません・・・近藤氏の胸中、強い意志は信じがたいものです。
何も出来得ぬ私は、ただ贅沢を回避して質素堅実に暮らすばかりで・・・この本を読んでいます。

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心の支えは人それぞれに違います・・・
   意志の強い人もきっと何か支えになっていた者がある。
2017. 08. 10  
新潟県のチューリップ情報
近藤亨氏の著書
ムスタンでの近藤氏の仕事に触れたブログ

盆を迎える~甲子園の戦いもひときわ暑い夏盛りだ
が、立秋を過ぎると老人は~生のキュウリを止めて、温かい温麺スープや南瓜のポタージュ、時にエアコンから逃れた夕暮れ時の散歩で体調を整える。
・・・70~90を想像もつかない(富士山より高い)ムスタンで暮らした近藤氏の体調管理は?
参考にお聞きしたかった!

【第3章】ムスタンで初めて咲いたチューリップ
過去にネパールに住んでいた多くの外国人が、チューリップを咲かせようと試みて、すべて失敗に終わってる。
近藤氏は出身地の新潟県(富山と並ぶチューリップの産地)を取り寄せて栽培に挑戦。
その下準備は気候の徹底した比較(新潟県とカトマンズ)を行い大規模なチューリップ栽培に挑んだ。
現地の青年にまずは日本の農業のテ手ほどきから・・・現地の農業は荒れ地に一斉に無秩序に蕎麦の種をまく事しかしていない・・・それを、冠水が行き届く区割り作業から、厩肥づくり、耕作地への鋤きこみなど、すべてを一から教え込む苦労があった。

 …私も経験のないところから果樹栽培を始めたので、その(゚Д゚;)違う世界に学ぶ驚きは理解できる。

そしてついにチューリップの花は咲いた~
栽培品種の規格に外れた花を花束にしてじょむそん空港前の市場に置いたところ大人気となった
『ムスタン在住の日本人技術者の手で、この国初めての栽培が見事成功した』とのニュースがネパール全国に流れた! 

///苦労の後の成功は~本当にうれしい物です、( ^ω^)・・・ネエ

新潟県のチューリップ情報
2017. 08. 07  
8月6日 広島に原爆が投下された日~平和を祈る日

しかし、その裏で原子力産業をも輸出している国家
平和の祈りは単なる儀式に、見栄えの良いセレモニーが放映される、この日だけ。
(自己の栄華よりも平和を尊ぶ一部の人以外)その中に祈りがあるのだろうか?
 (気概を持った日本人は何処へ消えてしまったのか~原子力反対・戦争反対と旗を振らねばならぬ国が、形だけ祈りを見せて陰では商売にしている)

【第2章】蘇る友情
近藤亨氏は新潟県の純農村地帯の大きな地主の家に生まれた。
高等小学校になると街の子らと共に学ぶ校舎に通うようになるのだが、昔の事、農村と町の暮らしぶり、経済力には大きな隔たりがあり、服装・文具・弁当の差にとどまらず、農繁期は家の農業の手伝いもある農村の子らは学習時間においても大きなhandicapを背負ってた。
にも拘らず、二人の農村の子供がトップを競い合う。
その一人は近藤亨氏であり、もう一人:石沢秀五氏は中農の子で進学を望める環境ではなく、しかし彼の才を惜しむ支援の声も断り、実家の農業を継ぐ己の道を進んだ。
後に、二人は故郷で再会し、近藤徹氏のムスタンの活動の力強い支援者してと地元新潟県での協力活動をされた。とある。

当時(1935年・昭和初め)は農村の暮らしは時折TVドラマや映画では観るが、それ以上に厳しかったに違いない、
亨氏は「殊に農繁期には、今のネパールの子共達と同じく、大事な働き手の一人として、学校を休まざるを得ず、勢い、町の子共達との学力の差は顕著で。各クラスの上位はすべて町の子で占められているのです。そのことが何時も悲しく悔しくて堪りませんでした。」
・・・亨氏は、農村の子の名誉にかけて、必死に勉強し、お二人は励まし合い、常のトップの座を競い合ったと…記されています。

近藤亨氏、石沢秀五氏~子供の時から意志の強い己の道を断固として通すこの精神に、私は深く恥じてしまいます。
亨氏がムスタン支援の活動を決意された際、その資金調達に先祖伝来の家屋・田畑・山林を売り払い、一族縁者にも支援を仰ぎ、個人の資金で始められた活動を、同じ強い志のある友は共感し、一心同体の心意気で支え続けたと〰そう思います。


昭和はじめの農業

昭和21年の家計と暮らし私の生まれたS21年がどのようだったのか興味深い記録です。
プロフィール

レディー

Author:レディー
メタボだったパパは、山梨の自然の中で土に触れ果樹に触れ健康をとりもどし、 夫の健康を気づかうママは・・・ヘルシークッキングの野菜も作りながら食の安全・健康農業を紹介しています。

果樹園にそよぐ風に癒されながら『緑の農地を少しづつ一人一人が守る、緑の日本』を夢見ています。

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